2018/05/03

豊浦層群歌野層(中期ジュラ紀)の砂岩・泥岩互層(Alternations of sandstone and mudstone of the Middle Jurassic Utano Formation, Toyora Group.)


ジュラ紀の大陸縁に細長く伸びる内湾で堆積したと考えられる豊浦層群(とよらそうぐん) の堆積物について紹介します。ジュラ紀というと,Jurassic Parkを思い起こしてしまいますが,これはジュラ紀ではなく白亜紀の恐竜などを出演させていることは,恐竜好きな方ならご存知のことと思います。今回は,中期ジュラ紀の歌野層の海で堆積した堆積物について,いろいろ余談もまじえて解説したいと思います。




白山山頂から北側の華山方面を望んだ田部盆地遠景(2007/8/5)




豊浦層群とは


豊浦層群は,主に海で堆積した前期~後期ジュラ紀の地層で,
下位より東長野層,西中山層,歌野層,阿内層から構成されています。東長野層~歌野層からは,アンモナイトやイノセラムスなどの海生動物化石が,しばしば産出します。従来の区分とは違っていることに気づかれる方もいらっしゃると思います。

古くからあった東長野層~歌野層は,
下関市菊川町に広がる田部盆地を境に,北側に分布する模式地の地層において,かなり正確な地質区分が海生動物化石の研究からなされています。しかし,田部盆地の南側の地層は,アンモナイト類やイノセラムス類などの年代のわかる動物化石があまりにも希にしか産出しないために,研究者によってしばしば大きく異なる地質図が描かれています。南部に貫入する白亜紀花崗岩類の貫入による熱変成を受けて詳細が不明な部分が多いとも言われますが,実はそうでもありません。
むしろ,化石の産出が希な上,断層により地層がズタズタに分断され,走向・傾斜もそれにつられて大きく変化し,地層の厚さを見積もりにくいために,地層区分がしにくくなっているだけだということが,独自の調査で明らかになりました。また,岩相変化の少ない堆積岩が分布し,走向・傾斜も東長野層では塊状で難剥離性の岩石が多く測定し辛い状況で,成果を生み出しにくい地域であったために,本腰を入れた詳細な調査がされてこなかったといえるでしょう。

この地域で化石採集をされている方であれば層理面の見極めに長けているでしょうから剥離し難い石でも走向・傾斜など比較的容易にわかると思いますが,初心者ではここの調査はほぼ無理だといって良いです。難易度の高い地質調査では岩石の識別はともかく長年の化石採集などの経験が欠かせないということです。
田部盆地の南部の地質に関しては,いくつかの古い地質図が,地方地質誌や地質図幅などに取りあげられています。
よく使われているのが,『日本の地質7 中国地方』(1987年)に掲載されている地質図です。この地質図は,動物化石のデータが比較的多く,当時としては画期的に思いました。しかし,この地質図は文献欄を見てみると,卒業論文の短期研究によるもので,化石採集に重点をおいて作成されたようです。この地質図では岩相区分は記載内容から一見,合理的なようにみえても,田部盆地より南側の各層ないし部層の地質境界が直線的に描かれていて,実際には各地点の岩相対比が相当上下し正確になされていませんでした。その原因としては,先行研究による地質・古生物学的な記載が部分的にしか考慮されていないなどの実態が地質図を見るとよくわかります。

というのも,およそ20年にわたり調査・研究を行った結果(河村,2010,2017),一口で簡単に説明しきれることではありませんが,この田部盆地の南側の地域では,豊浦層群をズタズタに切り裂く断層がたくさん分布していて,地質境界を直線的に引けるほど単純な地質ではありません。よく植物化石などの採集に行かれる方であれば,石または植物化石を見れば,どこの産地あるいはどこの層準の石かすぐに察することができるくらいの識別が可能になりますので,適当に書かれた地質図をみると,文献調査が甘い,ハンマーで石をきちんと割って詳しく調べていない,現地の石を見慣れていないなどといったことが悟られてしまいます

地質境界を直線的に引いている場合,
地層面は垂直に近いか,あるいは,地層の走向線の向きを頼りに地質境界線を地質図学を駆使して引くと,層準がずれる,すなわち間に断層が存在しているため,うまく境界線を引けず,岩相境界を直線的に結ばざるを得ないということもあります。このような地質図は,まず正確に作成されているのか否かを疑わなければなりません。地質図は,ただ機械的に踏査して境界線を引けばできるというものではなく,断層による地層の不自然な途切れなどといった説明困難な部分がよく出てきます。こういった不自然さを見て取れる地質図は,まだ完成には至っていない地質図です。調査者が気が付かないか,どこかであきらめて投げ出しているということです。
例えば,断層や褶曲などが,どういった経緯でこのような構造になったかということを説明できるまで,突き詰めて調査を重ねなければ,いくら高精度に調査しようとも正確な地質図は描けないということです。本当に良い地質図というのは,こうした綿密な調査を重ねた上で描かれた,地質構造発達史を読み取れる地質図だといえるでしょう。


豊浦層群の堆積が終息した上限の年代はいつなのか

歌野層の堆積が終わった頃,中期ジュラ紀の末にBathonian期(バトニアン期;バース期やバス期とも)という時代がありますが,Bathonian期は,最近ニュースなどで話題になった,千葉県市原市の地層を,国際年代層序の基準地として命名された,中期更新世のチバニアン(Chibanian期)という時代と同じカテゴリーといえばわりますね。
山口県にゆかりのあることなので敢えて書きますが,チバニアン期の下限の境界年代は,後に山口大学の初代学長になられた松山基範先生が1926年に兵庫県の日本海側の円山川下流にある玄武洞で発見した地磁気の逆転イベント松山逆極期)と,ブリュンヌ正極期との境界年代の77万年前になるそうです。昨年,現在の地磁気が逆転するのではないかとネット上で騒がれていました。Bathonian期も,イギリスのバースという地名に由来しています。

歌野層はBathonian期末の海退期で,地層の上限を画されています。これは研究当時に九州大学にいらっしゃった平野弘道先生(昨年くらいに他界されたようです)が,動物化石の研究から明らかにしています。歌野層の上位に阿内層が整合に覆っているということがわかりました。この阿内層がほぼ分布する領域は,豊浦層群の上に不整合に重なる豊西層群に属するとされた時期もありましたが,現在は従来どおり豊浦層群に戻されています。従来,豊浦層群の上限の年代は,Bathonian期とするのが主流でした。Bathonian期というのはその末期に大きな海退が起こった時期になります。しかし,海と陸はつながっているのですから,海退期があれば,堆積環境が海から陸の堆積物へと漸移していくのみで,一時的な海退イベントくらいでは堆積盆地は消滅しないと考えるのが自然です。不整合があったとしても,それは部分不整合でしょう。

では,どういう場合に堆積盆地の消滅が起こって,
地層と地層との間に大きな時間間隙ができるでしょうか。それは,大規模な地殻変動が起こった時が考えられます。最近の論文(河村,2017)で報告したばかりなのですが,阿内層の堆積時期(Bathonian期末~前期Kimmeridgian期には,その後半くらいから,付加体の成り立ち,すなわち広域テクトニクスと大きく関わる大規模な地殻変動が起こったことがわかってきました。飛騨地域の九頭竜層群の堆積盆地の消滅テクトニクスと年代的にも関連性がある考えています。

九頭竜層群ってあったか?と思われる方もいらっしゃると思います。もともと手取層群は,手取統と呼ばれていて,前田(1951)による報告までは,下位から九頭竜層群,石徹白層群,赤岩層群に区分されていました。しかし,岐阜県荘川地域において,前田(1951)による調査で九頭竜層群と石徹白層群の間に不整合はなく整合であったため,その後,手取統は九頭竜亜層群,石徹白亜層群,赤岩亜層群として改称されました。現在,荘川(庄川上流)地域の手取統は層序が改変され,石徹白亜層群以降の地層であることが明らかにされていますので,先取権に基づいて九頭竜亜層群を改めて九頭竜層群へと戻すというのが筋でしょう。
近年,九頭竜層群を復活させた論文も出ていますが,詳細を把握されていなかったり慎重な方が,しばらく亜層群を使い続けることでしょう。手取の名称を残したい場合,すでに提唱されている手取累層群(Tetori Supergroup)を使用すれば良いです。

ただ,先取権といっても豊浦層群の読み方のように例外もあります。
豊浦層群の古い名称は,矢部(1920)において豊浦層(Toyoura Series)と呼ばれたのが最初ですが,地学事典では,現在,正しい地名の読み方で,Kobayashi(1926)以来,広く使用されている豊浦(とよら)層群が採用されています。この場合,現在の層序に近い豊浦層群の層序の原型をつくりあげたのは,Kobayashi(1926)が最初でしたので,そういった事情もあるのでしょう。関門層群も以前は,Kwanmon Groupと表記されていましたが,古い読み方ですので,現在はKanmon Groupと改められています。以上のように,読み方の場合は間違いがあれば変更は可能ということを覚えておきましょう。ただし,北浦の日置層群(ひおきそうぐん)のように日置の地名と読み方(ヘキ)の表記を先取されている場合は,重複を避けて変えてある場合もあり,地層名を守ろうという意図が感じられる例ですね。

ちなみに,「とようら」という読み方は,豊浦町の読みにあたります。豊浦町には豊浦層群は分布していません。「とよら」の場合は,豊浦郡の読みになりますが,近年の市町村合併により豊浦層群の分布する豊浦郡の豊田町,菊川町が下関市に変わり,さらに昔にさかのぼると,下関市の小月,阿内,清末,さらに長府あたりも豊浦郡と呼ばれていた時期がありました。ですので,下関市長府には歴史の古い豊浦高校(とよらこうこう)や「豊浦小学校」(とよらしょうがっこう)があります。四王司山の南側には,「豊浦村」や「長府豊浦町」という地名が残っていますが,郡ではないですのでトヨウラと読みます。


地質図の確度の低下

地質図は,先人の書かれたものがよほど正確だと思われることがあります。図の新規性を得るために少しだけ改変しておこうというような考えが働くことは,ごく普通にあることと思いますが,調査をする時間があまりないので簡単に済ませておこうと将来的な弊害を考えずに地質図を公表する方も中にはいます。
自然科学の分野は,いうまでもなく再現性が不可欠です。しかし,再現性も大事ですが,昔のほうが法面にモルタル吹き付けや植生がないなど正確な調査ができた場合もありますので,それも十分に考慮するべきです。
新しく公表された再現性に乏しい地質図が,十分に検討されずに,最新=確からしい目新しいものとして,そのまま出版物などに掲載されてしまうといったこともよくあることです。まだ若い初心研究者か,その地域の地質に詳しくない方は新しく掲載された地質図や記載を信じてしまうでしょう。

まだインフラ整備が進んでいない時代に書かれた地質図は,
現代人とは比べものにならないほど足腰の強いよく歩かれる方が懸命に書かれています。ひと昔前,査読者に指摘されてはじめて気が付いたことなのですが,過去のデータに対する議論・論破もせずに,安易に無視をするという行為は,非科学的で可能な限りやってはならないことだということはいうまでもないことなのですが,若手の方しがらみのある方は,ついやってしまいがちです。逆に,それだけの議論ができる論文でなければ公表するレベルに達していない内容だということです。


地質学分野における現代人の負のスパイラル

近年,地質調査では,これまで先行研究者が蓄積されてきた以上のことを為さなければならないので,より多くのことをしなければ,すぐに成果・実績が出せない時代です。
成果ありきの社会で,それだけのことができるかといえば,限られた時間の中で,できない方のほうが大多数だと思います。短絡的にいえば,ことこつと歩く人ほど損をしてしまう世の中になってしまいました。
新しいことをして少しでも多くの技術を習得したいというのはわかりますが,フィールドワークを疎かにし室内作業に傾倒するために,地質調査ができない人ばかりだということを以前からたまに聞きます。しかし,既に述べたように数年間野外調査をして歩けば自然に地質調査ができるようになるわけではないように思います。
研究成果重視の風潮が,地質学の分野に限らず,様々なあからさまには語れない弊害を生んでしまっています。これからの日本の地質学界はどうなっていくでしょうか。


歌野層の砂岩・泥岩互層


歌野層の砂岩・泥岩互層(下関市菊川町)


上の写真の露頭では,砂岩層(厚さ3-20㎝)が,薄い泥岩層と互い違いに重なっているのがわかります。露頭の表面の凸状の色調の明るい部分は硬い砂岩層で,比較的柔らかい泥岩層は浸食されて凹状になっています。泥岩層は,粒子の大きい重い砂が堆積したあとに,細かい粘土鉱物などを含む濁った海水からゆっくり沈降してたまったものです。
この砂岩・泥岩互層は,内湾の三角州周縁付近で発生した乱泥流がその沖合の三角州外縁,プロデルタにおいて定置・堆積したものと考えられます。
田部盆地の南側の菊川町七見あたりにも,同じような露頭が分布していますが,風化がやや強く,粘土化しているため,砂岩層の存在にさえ気がつかずに泥岩としてまとめてしまう方が多いことと思います。柔らかい地層の場合は削ることができるので,よく観察してみると面白いです。運がよければ堆積構造が保存されているのを観察することができます。

ご存知の方もいらっっしゃると思いますが,歌野層の泥岩については,頁岩として扱われているのを,昔の文献ではよく見かけます。近年は,頁岩という用語は曖昧な部分があり,記載用語としては用いられなくなってきています。
簡単に解説してしまいましたが,また機会があれば詳しく書きたいと思います。