2017/09/02

豊浦層群阿内層の模式地の中尾における歌野層/阿内層境界の露頭周辺の状況(The boundary locarity between the Utano and the Ohchi formations of the Toyora Group)


豊浦層群は,今から約2億~1億5500万年前の前期~後期ジュラ紀に,主として海に堆積した堆積物で、下位より前期ジュラ紀の東長野層,西中山層,中期ジュラ紀の歌野層,中期ジュラ紀末‐後期ジュラ紀の阿内層の4層に区分され,ジュラ紀末期~白亜紀初期の豊西層群に不整合に覆われています。この豊浦・豊西両層群の関係は,飛騨地域の手取累層群の九頭竜層群・石徹白層群の関係とよく符合しています。今回は,この阿内層とその下位の歌野層との境界に関するエピソードについて,色々な余談を織り交ぜながら解説してみたいと思います。


豊浦層群阿内層とは

阿内層は,高橋ほか(1965)による歌野層の分布域の大部分と,大字阿内南部に分布する東長野層・西中山層の一部を合わせたエリアにほぼ相当します(河村,2010)。阿内層は,主に下関市阿内に広く分布しこの名称がつけられました。英語では,新生界の大内層(Ouchi Formation)と区別するために,阿内層をOhchi Formationと表記しています。阿内層は,内海のプロデルタ~ファンデルタ-スロープとその周辺で堆積した歌野層を整合に覆う地層で,泥岩には植物片が多く含まれ,歌野層と同じ生痕化石 Phycosiphon(フィコサイフォン)を多く含む生物擾乱泥岩層が所々挟まれています。Phycosiphon は,豊浦層群阿内層を不整合に覆うジュラ紀末期~白亜紀初期の豊西層群からは認められません。

 

歌野層と阿内層の境界はどこなのか

まず,阿内層の模式地である下関市阿内において,阿内層と歌野層がよく露出し,両層境界が見られる場所を紹介しましょう。 下の写真は,2002年1月20日にフィルム撮影した下関市阿内中尾の北西,豊関広域農道(グリーンロード)と林道中尾線が交わる交差点付近の写真(北を望む)です。撮影したのは,まだデジタルカメラが普及しかけていた頃の話になります。

写真_地層
中尾付近の歌野層の道路法面(2002年1月20日フィルム撮影) 
雨天のため雨滴が写り込む

上の写真ですが,交差点から北側(向こう側)に,一面に歌野層の露頭が広がっているのが見えます。この区間の路面高まで掘り下げた辺りは,南向き(写真手前)に傾斜する谷地形でしたので,あまり大がかりに深く掘削されていません。当たり前のことですが,きちんと経済的な設計がなされています。この歌野層の法面露頭(下の写真)は,この頂部を更新世の段丘堆積物がほぼ水平に覆い,その基盤となる歌野層の縞状泥岩は,かなり風化し軟弱化していますので,歌野層は,雨に濡れているとネジリ鎌で地層の表面を削りとれるくらいにやわらかいです。次の写真において,アンカー工(ユンボの上の十字が並んでいる部分)の配置する直上とその延長線上に,段丘堆積物が水平に分布していることがわかると思います。アンカー工は,脆弱(ぜいじゃく)で崩壊する恐れのある基盤岩に設置されますので,この辺りは地層が脆弱だということが明らかです。法面頂部にみられる段丘堆積物は,砂礫や泥質の基質に大きな礫を含み,しまりの良い昔の河川の堆積物で,現在の神田川の河川流路がある沖積平坦面よりも,およそ20m上の標高に,基盤の歌野層をほぼ水平に覆って分布しています。

写真_地層
法面の主体をなす歌野層の縞状泥岩を,法面頂部において段丘堆積物が覆っている
(2002年1月20日,豊関農道沿い西側法面をフィルム撮影)

上の写真の法面露頭は,2005年に同じ場所(Loc. 99)とされる論文の写真を見て,その図の説明を読んだ瞬間にかなりの衝撃が走った場所でもあります。というのも,上の写真とは全く様相の異なる道路法面露頭写真(スケールから幅14m,高さ10mはある)が掲載されていて,その法面では歌野層が大きくえぐられるように浸食され,その上に豊西層群清末層が平行不整合に覆っているかのように図示されていたからです。2002年に自ら撮影した写真に,その論文の構造(白い破線)を書き入れたのが次の写真です。

歌野層の岩盤中にかつて記載された豊浦・豊西層群の不整合面、層理面、断層などを示す

写真の下半分の構造は実際と一致しているのですが,層理面を示す線は,実際の層理面だけでなく法面頂部を覆う段丘礫層とも食い違いが認められます。しかし,Loc. 99は確かにこの位置なのです。論文の不整合法面写真には,法面の背後の植林や前面の植生も写っておらず,送電線が3本だけ写っていて、こうなってしまうと意味がわからなくなります。現状の法面でも法肩の辺りは確認ができないことはないですので疑問に思う方はどうか調べてみられてください。植生もGoogle Earthで、ある程度昔の空中写真が見られるようになっています。その図は,これまでの地層の所属を豊浦層群から豊西層群へと舵を切る大きな根拠とされてしまうものです。

写真_道路法面
法面上のスロープと段丘堆積物に法枠が施工された段階の道路法面
(南側からフィルム撮影)



写真_法面
上の写真と同じ時期の歌野層が露出した道路法面で
手前の黒っぽくガサガサした部分は下位の西中山層

(北東側からフィルム撮影)

写真を見てのとおり,見渡す限り豊浦層群の縞状泥岩であったこの道路法面露頭に,論文の柱状図や文中に明示されている厚さ5m(法面の1段の高さに相当)にもなる礫岩層はないにもかかわらず,どうしてここに歌野層と清末層との不整合境界があるというのでしょうか。2005年の論文に提示された写真の道路法面の岩盤は,見るからに堅硬,ガチガチの様相で地層の縞模様らしい部分もないのです。もともと谷地形の部分が掘削されていて斜面はそんなに深く削られておらず岩盤も風化して柔らかいのです。年を遡って2003年のこと,地元のリグネライテスという現在の阿内層から出る植物化石の問題で,美祢市の学芸員さんを訪ねた際,この方がこの地域の論文を出すだろう,とのことで,「どちらが先になるかですね」などと色々お話しを伺っていましたので,地層の所属も2002年の曰くつきのリグネライテスの論文に記載されているのと同じ清末層として記載されてしまうのだろうかと想いを巡らせてはいました。豊関農道の施工が,阿内地内まで及んだ1998年頃から,論文としてまとめようと,この地域を時間があれば踏査してきていただけにどうすればよいのかと問い続ける毎日でした。2005年の件で当面投稿もできないですから,その3年後に投稿に踏み切ってできたのが2010年の論文になります。論文でこのことについて触れるとリジェクトされる可能性がありましたので折り合い良くまとめています。批判的な論述が多いのは厳しい査読の爪痕です。

歌野層の分布

すでにお話ししたとおり,歌野層と阿内層の境界は農道法面上にあるのではなく,歌野層は,上の写真の農道法面よりも層序的上位の西側の山の中にも厚く分布します。農道法面の西方の山の中の露頭は小規模ですが,小道沿いの路肩や路面の表面をネジリ鎌で削ってみると生物擾乱泥岩の生痕(Phycosiphon)の断面の点々やJ-U字形まだら模様を確認できます。風化がひどいですが林道中尾線のほうに下る小道沿いの路肩などでも見られます。行かれる時はネジリ鎌を必ず忘れないようにしてください。農道法面の頂部に露出している段丘堆積物は,新しい更新世の河川堆積物ですので,阿内層起源の泥岩,砂岩のほか,本当の清末層起源の硬質砂岩の礫も,昔の川の流れによって運ばれてきて,山中の同じ場所に歌野層を覆って分布していますので,これらの大きめの転石も多く転がっています。深く掘ると歌野層の泥岩層が出てくるといったイメージです。法面の上で調査ボーリングもしているはずですので、地質コンサルタントの方でご存知の方もいらっしゃるはずで、当時の法面の写真も保存されていることでしょう。

何故ここに歌野層と清末層の不整合面(Loc.99)を定義したのか

地質調査では,転石から基盤地質を推定することもありますので,恐らく,上述した転石群がここに清末層が分布しているとみなした要因の1つではないかと思われます。確かに段丘の上の地表には植物化石の含まれる硬質の転石が見られます。しかし、論文の不整合面の写真は、段丘ではなく明らかに岩盤中にあります。後から法面が覆われて詳細がわからなくなり段丘礫層でごまかすことが可能といった判断からなのでしょうか。しかし,2002年の国際誌にリグネライテスの化石を清末層産の新種として記載してしまっていることも,大きな動機の1つになったでしょう。卒論生くらいの初心研究者は,不動転石なのか移動転石なのかを識別をせずに,例えば,周囲に露頭がないか,あるいは二次堆積物がないかをよく調査しないで,何十メートルも下ってきた大転石(土石流や崖崩れでは巨石がかなり移動します)を露頭だと勘違いして,これを根拠に地質境界を引くなど,不適切な報告をしてしまうということも十分にあり得ます。例えば、吉母層中に明らかに脇野亜層群のものとわかる基底の礫岩の大転石が転がってきていますので、阿内-菊川地域では礫岩・砂岩優勢の吉母層の上部層は分布していないにもかかわらず、これを柱状図に大々的に記入してしまっているということからもその線が濃厚です。

歌野層と阿内層の境界露頭へ

では,歌野層と阿内層の境界露頭へのたどり着き方を紹介しましょう。上の写真にも写っていますが,道路法面を斜めに横切るスロープを上がって行くと,森の中へと通じる小道があります。その小道をしばらく上がっていくと,下の写真のような崖が目に入ります。その崖では,その右側の狭い範囲に歌野層の泥岩が露出していて,走向・傾斜を計測することができます。崖の左側の部分には,堆積岩の岩屑がたくさん集積し,厚く堆積しています。これは,更新世の段丘面に河川が流れていた頃に堆積した,古崖錐堆積物ではないかと考えています。

写真_地層
歌野層の泥岩を崖錐が覆う崖

歌野層と阿内層の境界へ行くには,この崖から,およそ25mくらいの地点になります。この崖(上の写真)の左側を駆け上がると,イノシシが作った獣道があり,すぐにまっすぐのやや広い道に出ます。そこからいくらか歩いたところに歌野層と阿内層の境界露頭があります。この道は現在,周囲の木も高くなり林下の薄暗い道になっていますが,約8年ほど前,若い木は生えていましたが,晴れやかで良い道でした。下の写真のような風景です。Google Earthでは当時の山の様子も確認できます。

写真_地層
歌野層と阿内層の境界のある小道の状況(2009年撮影)

下の写真は,歌野層と阿内層の境界の露頭です。両層境界は,ネジリ鎌の置いてある位置で,左側が阿内層,右側が歌野層です。

写真_露頭
歌野層と阿内層の境界露頭(境界はネジリ鎌の位置,2009年撮影)



写真_泥岩
阿内層の礫岩層(Oa1)の直下の歌野層の生物擾乱泥岩



写真_岩石標本
阿内層の礫岩層(Oa1)の標本

上の写真は,阿内層の一番下の礫岩層(岩相番号でOa1と付けています)から採取した礫岩の標本です。堆積物重力流起源の礫岩で,下位の歌野層の生物擾乱泥岩を巻き込んで堆積したものと考えられます。写真を見るとわかるように,礫岩が堆積する時に,歌野層の生物擾乱泥岩が未固結であったために,泥片どうしが癒着したり,ぐにゃぐにゃに変形している部分が観察できます。ですので,この標本は,歌野層と阿内層との間の堆積間隙はあまりなく,両層が整合関係にあることを物語っています。歌野層・阿内層間はユースタシー(全球的な海水面そのものの変動)によって形成されたBathonian期末のシーケンス境界にあたります。層(formation)単位の地質は、一般的にこのシーケンス境界(基底礫岩の存在)によって区分されますが、岩相で分けられている例も多いです。層群単位の層序は広域的に起こった地殻変動によって区切られていることは古くから知られていることですが、これを認識されていない方が多いのではないかと思います。「地かく変動と不整合のでき方」は中学校の理科でも学習するレベルのことです。もちろん不整合はユースタシーによる海退期にもできますが、これは一時的なもので岩相の垂直変化としては堆積相がより陸側の堆積環境のものに推移していくのみで部分不整合というものを形成することもあります。この部分不整合が局所で観察されたというだけで、他の場所では堆積が継続しているのです。阿内層が堆積した時期は南中国地塊の内陸部のリフティングにより163Ma頃から基盤の隆起が開始されますので、削剥が顕著になるように思えますが、温暖化により2次オーダーサイクルの大きな海進がありますので、層序がBathonian期でとぎれることはないと考えて良いと思います。海進はリフティングが終息する150Maに清末層の基底砂岩礫岩層が堆積を開始する直前まで続き、これからいよいよ温暖化も収まり海退期に入ります。清末層の基底部はこの海退によって内陸部で削剥が顕著になったために豊浦層群の堆積した後の細長い窪地を埋積するように標高の高い北側から南へと川が流れて粗粒堆積物が覆っていく景色が想像できます。清末層の基底部には南に傾斜した層理をもつ平板状斜交層理が一部にみられ、中型のトラフ型斜交層理も2地点で観察されます。トラフ型は阿内層の砂岩層には稀にしか見られない堆積構造で、あっても小型です。それもそのはず河川堆積物ではないからでしょう。 最後まで,読んでいただきありがとうございました。簡単にですが,歌野層と阿内層の境界露頭までのルートマップを書いておきましたので,必要な方はご参考までにされてください。



歌野層と阿内層の境界へ行くまでのルートマップ(転載不可)