恐竜が闊歩した中生代白亜紀のこの地殻変動(周南期変動)がなければ日本では数少ないジュラ紀から前期白亜紀にわたる地層である豊浦層群・豊西層群は地表に広く露出せず地下で消失していたと考えられる変動の痕跡が観察される露頭を写真で紹介します。これは阿内地域の豊浦層群に属する阿内層(ジュラ紀)の中にあり,関門層群の堆積後の南北圧縮応力下で背斜褶曲に伴って形成されたと考えられる衝上断層になります。衝上断層の形成当時の造構環境と形成メカニズムについて解説します。
阿内層内の衝上断層(阿内高地橋の北) |
背斜構造と衝上断層の位置
下関市南部には大字(おおあざ)の内日から清末にかけて追跡できる大畑-鳥通(おおばた・ととおり)断層が認められ,その断層の南側にほぼ垂直に立ったり上下が逆転した地層が下位から阿内層,清末層,吉母層,関門層群にまで及んで分布します。
大畑-鳥通断層(Fig. 3のf)や走向・傾斜の入った論文はこちらからダウンロードできます。
大畑-鳥通断層より南側の清末層/吉母層/脇野亜層群境界露頭(写真左が南) 各層の走向は総じてN80~90°W,逆転層をなし北へ48~75°傾斜。 グリーンロードの阿内トンネル南口を抜け橋を渡って最初の法面 |
上の写真の露頭については,公式サイトでこちらでも紹介しています。6年前に紹介したこちらの記事でもこの法面について別のアングルから詳しく触れています。
大畑-鳥通断層の位置とほぼ同じ位置に,現在,断層にはなっていますが背斜構造があったと考えられます。ほぼ背斜軸の位置で変位して垂直断層ができたわけです。
大畑-鳥通断層は下図の赤太線の位置になり,断層には主変位面はみられませんが幅10-20mの幅の広い破砕帯が確認できます。破砕帯には細かく割れ目が発達し,破砕帯露頭はポロポロと崩れるくらいに風化しています。衝上断層の位置は赤い星印の位置です。
大畑-鳥通断層と衝上断層の位置 |
どうして地層が垂直になるほど立っている?
東西性の褶曲軸をもつ向斜・背斜構造は,長門構造帯より北西側の関門層群の上部を構成する下関亜層群にまで広く及んでいることが既存の地質図から読み取れることから,今回の阿内地域の背斜褶曲の形成は,関門層群の堆積よりも後に起こった地殻変動と関係していると考えられます。
この地殻変動は,褶曲軸が強い南北圧縮応力下で形成されたことがわかりますので,何らかの要因で南側からの強い圧縮が行われたことが考えられます。
南北圧縮応力場が生み出された時期とその原動力は?
高地峠南東約500mの林道より少し入った北側の崖において,背斜褶曲後の大畑-鳥通断層を切っているNNE-SSW系断層の副次的な割れ目に石英斑岩が貫入しています。この石英斑岩はこの地域の地下に伏在する周南期の長府花崗岩(94 Ma)の活動に伴った随伴岩脈と考えられることから,後期白亜紀の初期に貫入した石英斑岩であることがわかります。したがって,関門層群(Hauterivian期末~Albian期:130~100.5 Ma)よりも新しく94 Maよりも古い約650万年の間に起こった地殻変動だと推定できます。
石英斑岩の位置はこちらの論文(ダウンロードできます)のFig 3にわかりにくいくらい小さいですが清末層中に岩脈が黒色で入れてあります。
下関亜層群堆積後の周南期-阿武期(100-85 Ma)はイザナギプレート(海洋プレート)の沈み込み速度がとくに速かった(23.5cm/年)ことが知られています。それまで下関亜層群におけるアダカイトの生成など若い浮揚性海洋プレートが低角に沈み込む造構環境(20.5cm/年)にあった古日本弧の地殻に高速に沈み込むプレートの力が加わり南北方向の強い圧縮場が生み出されたと考えられます。この時に,山口県西部の広範囲に東西性の褶曲軸をもつ褶曲運動が起こったと考えられます。
イザナギプレートと太平洋プレートの境界がこの時期に古日本弧の付近にあり,海洋底の海嶺で生み出されたばかりのプレートが古日本弧の下に沈み込んでいたということはもう30数年以上も前からわかっていて,南太平洋スーパープルームの活動が約1億2000万~8000万年前頃まで活発化したと考えられていますので,プレートが海溝とほぼ平行に移動していた頃の脇野亜層群の横ずれ型堆積盆からこれを期に打って変わり下関亜層群の活発な火山活動が始まり,プレートの沈み込み方向もほぼ正常になっていたことは想像に難くないと思います。
周南期,匹見-阿武期と時代が変遷するにつれ海洋プレートの沈み込んだ長さも長くなり,次第に下に垂れ下がって沈み込み角度も高角になっていくと考えられ,南北圧縮応力も弱まっていったと考えられます。その証拠に阿武層群が堆積した頃になると火山岩類の全岩化学組成が島弧型ではなくなってきます。
豊浦・豊西層群が広く露出せず消滅していた可能性!
この山口県西部で後期白亜紀の初めの周南期に起こった褶曲運動がなければ,豊浦層群の西半部と豊西層群は現在の地表に現れず,関門層群に覆い隠されていたばかりでなく長府花崗岩や室津花崗岩をつくりだした地下の花崗岩マグマに同化して消滅していた可能性もあります。
周南期変動における背斜褶曲に伴う衝上断層
衝上断層のある地点の地質は,豊浦層群阿内層の砂岩・泥岩互層からなり,その走向・傾斜はN80-36°W・90°±10°で南上位を示します。
衝上断層は2つあり,これらの断層は背斜軸の方向とほぼ同じ走向で,写真右側の南傾斜の断層でN82°W・35°S,左側の北傾斜の断層でN75°W・36°Nです。
この2つの断層はちょうど共役の関係になっています。
参考までに
南部地域の豊浦層群中にもう1つ,下関市小月町北方の東長野層中にも背斜褶曲の痕跡が残っていますが,これは大畑-鳥通間の背斜よりも古い時代のものと考えられます。というのも,この褶曲は共役会合タイプのキンク褶曲に似たような構造で,キンク面に相当する部分がその後の変動でずれ動いたような構造になっています。これは長門構造帯南東縁に沿って豊浦層群の堆積基盤が北側から押されてずれ動いた際にこの背斜構造が形成された可能性があります。
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